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「愛媛の歴史特別編」・「出雲国の歴史・外史」 3

今日は「出雲国の歴史・外史」の3回目です。


今日は、昭和59年(1984年)に発見された”荒神谷遺跡”(こうじんだにいせき)の画像を見ながら、「出雲国」は神話に過ぎないとされていたものが、実はそうではなく”弥生時代”において、”日本国内では大勢力を持っていた国”であったことをご説明します。


そして、これら”荒神谷遺跡”から発掘された大量の”銅剣”・”銅鐸”(どうたく)、そして”銅矛”(どうほこ)などを見ながら、この遺跡が物語る意味と、次回に書きます「出雲大社」に秘められた謎の一端をお示ししたいと思います。


更には、そのことが「古事記」及び「日本書紀」とどう結びつき、「記紀」(古事記と日本書紀の総称)には、実はどういう意図と秘密が隠されているのか?ということを次回に書きますが、今日の記事はその下敷きです。


荒神谷遺跡”は、島根県簸川郡斐川町神庭字西谷(ひかわぐん・ひかわちょう・かんば・あざさいだに)にあります。


この場所は、”出雲風土記”に書かれている”出雲郡”(いずものこおり)の”神名火山”(かんなびやま)とされている”仏経山”の北東3キロメートルのところです。

荒神谷遺跡案内板1
遺跡発見のきっかけは、偶然でした。昭和58年に、この辺り一体に広域農道を造る計画が持ち上がった時、農道予定地の発掘調査が行われました。


その時、付近から”須恵器”(すえき=弥生時代の土器)が発見されたことがきっかけとなりました。本格的発掘調査が必要ということになり、59年に”荒神谷遺跡”の試掘調査が始まったのです。


町に大騒動を引き起こしたのは、その時の試掘調査で”銅剣”の一部が発見されたからです。急遽、奈良文化財団研究所や島根大学から考古学者が加わって本格的発掘調査が行われました。

荒神谷遺跡2
すると、何と”358本の銅剣”が出土したのです。それまで日本で出土していた”銅剣”は約300本。ここ”荒神谷遺跡”の”銅剣”の出土によって、銅剣の数は一挙に2倍以上になりました。


上の画像は、その”銅剣”が発掘された現場です、小さな丘の中腹に掘られた穴に埋められていたものが発掘されたのです。


予め銅剣を埋めるために平らなテラス状の段が加工さてていて、その下に穴が掘られ、その穴に銅剣が4列に規則正しく並べられて埋められていました。


この発見は、日本の弥生時代の青銅器研究の根底的見直しを迫る大きな出来事となりました。

荒神谷遺跡3
上の画像の左側部分の中腹に、白く見える部分がありますが、あの場所に358本の銅剣が埋められていました。


しかも、”荒神谷遺跡”に埋蔵されていたのは銅剣だけではありませんでした。これ以降も驚愕する埋蔵物が次々と発掘されました。


それは、昭和60年には銅剣358本が埋められていた傍で、”銅鐸”6個と”銅矛”16本が発見されました。一箇所で16本もの”銅矛”が発見されたのは初めてでした。


前回書いた”国譲り伝説”を思い出してください。「古事記」には、”オオクニヌシ”が葦原の中の国(=日本)の支配権を”アマテラス”の孫”ニニギ”に譲り、自らは「黄泉の国の王として、広大な”出雲大社”に隠れ住もう」と言って、”銅矛”をニニギに捧げて引退したということになっています。


銅矛”は、弥生時代の国の元首の宗教的・政治的シンボルでした。それがこの場所に埋められていたという意味と謎。


また”荒神谷遺跡”発掘の12年後(平成8年)に、”加茂岩倉遺跡”で39個の”銅鐸”も発見されました。358本の銅剣、16個の銅矛、39個の銅鐸は、平成10年に全てが”国宝”に指定されました。


さて銅剣と銅矛は元々武器であったことはその形から容易に想像できます。後に、武器の役割から”祭祀”の道具、”祭器”となります。


ところが”銅鐸”(どうたく)は不思議な形をしています。これは元々は””であったとされています。鈴は神を喜ばせるための音を響かせるものだったのでしょう。今でも神社に行けば、拝殿の前には大きな鈴があって、ジャラジャラ鳴らしますね。


銅鐸”には”怨霊鎮魂”という”呪力”を持っているとされていたと思われます。


この”怨霊鎮魂の呪力”が、”出雲大社”建立の決め手と言えますし、「古事記」「日本書紀」をどういう目的でどう編集したかったのか?


編集したのは誰か?を推察する重要なポイントになります。覚えておいて下さい。

荒神谷遺跡4
画像の左手中腹の白く光っている場所が、358本の銅剣が埋められていたところ、右手の梯子の上に見えるのが6個の銅鐸16本の銅矛が埋められていたところです。


これら多くの”宝器”を所有していたのは、間違いなく「出雲国」の大王であった人物でしょう。


それが”オオクニヌシ”だというのです。(もちろん、全く違った説を唱える人もいます)


前回に書きましたように「出雲国」の絶頂期は”オオクニヌシ”の時代であり、同時に日本の主権が「出雲国」から「ヤマト王朝」へと変わった時代でもありました。


その”歴史的事実”が前提にあって、「ヤマト王朝」は「出雲国」から国を譲られたということを「記紀」に書きました。空想の結果を物語に仕立てて”神話”として書いたのではありません。

銅剣発掘現場5
この画像が、”銅剣”が発見されたばかりの様子を伝える画像です。


規則正しく、4列に並べられて埋められていました。その並べ方にも意図が感じさせられます。西側から言えば、第一列と第二列は、剣の峰(刃の部分とは反対側)の方向が1本づつ、ほぼ交互に埋められています。


ところが、第三列と第四列は、剣の峰は東の方角(ヤマトの方角)に向けて埋められています。何かの意図を感じさせられますが、明確な理由は分かっていません。


しかも、そもそもこれだけ大量の”銅剣”や”銅鐸”・”銅矛”が、なぜ地中に埋められていたのか?


当時の”銅剣”等は、権力の象徴でしたし、大変貴重なものだったはずです。様々な説が今日まで提起されてきましたが、これが真実だ!とは、誰にも言えない謎です。


ただ明確に言えることは、これだけ大量の青銅器を有していた地方が「出雲国」であり、その「出雲国」は日本の大方を勢力圏に治めていたことがあったということです。架空の”神話”などではなく、「出雲王朝」は存在していたということです。

銅鐸画像6
この画像が、”銅鐸”6個と”銅矛”16本が発見された時の現場写真です。


左側が”銅鐸”です。日本で過去に発掘された”銅鐸”の中でも最古の型が埋められていました。丁重な儀式を行った上で、ある意図をもって埋められたに違いありません。


誰のために、誰が指示して埋めたのか?それと「出雲大社」建立の理由や、「記紀」の中で語られた「出雲神話」との関係はあるのか?ないのか?


これら”銅剣”などが埋められた原因と、倭国から日本に国号を変えた頃に建てられたと想像できる「出雲大社」という、とてつもなく大きくて高い建造物が建てられた理由とは、リンクしている


それが、全4回を通じて書きたかった内容です。

☓印のある銅剣画像
そしてそれらの謎を解く鍵が、上の画像です。


荒神谷遺跡”で発見された”銅剣”の殆どに刻まれている「☓印」です。”銅鐸”にも同じ「☓印」が刻まれています。


具体的に言えば、”荒神谷遺跡”から出土した”銅剣”358本の内、344本の”銅剣”の同じ部分に「☓印」が刻まれています。


また”荒神谷遺跡”と”加茂岩倉遺跡”のほとんどの”銅鐸”に「☓印」が刻まれていますが、この「☓印」が刻まれている”銅剣”と””銅鐸”は、全国でも”荒神谷遺跡”と”加茂岩倉遺跡”から発掘されたものだけに限られます。

銅剣等一覧9
この画像は、出土した”銅剣”類を補修して蘇らせたものの一部です。全て「国宝」です。


これは、”ある方への鎮魂”の意思を示すものではないか?


何らかの意図があって、貴重な宝物であり権力の象徴でもあった”銅剣”と”銅鐸”に「☓印」を刻印して、大切に埋めた。その意図が、”ある方への鎮魂”の意思であったというのが、次回、最終回に書く内容の一部です。


同時に「出雲大社」と「記紀」」の秘密に迫ります。






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プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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