「愛媛の歴史特別編」・「出雲国の歴史・外史」 4

今日は、1月1日から書き始めました「愛媛の歴史特別編」の、全18回のシリーズの最後として「出雲国の歴史・外史」の最終編です。


この最終編を持ちまして、「愛媛の歴史特別編」と題した全18回のシリーズを書き終えることに致します。


昨年は「出雲大社」において、60年に1回の”式年遷宮”(しきねんせんと)が行われた年です。


その年に”出雲”を旅できましたことも、歴史をテーマの一つとしてブログを書き綴っておりますワタシにとっては、何かの”ご縁”があったのではないかと思います。(この旅は、畏友:”ジンゴズンゴ”さんの協力があってこそ実現できました。ここに、改めました深甚なる謝意を表するものです)


今日ご紹介する「出雲国の歴史・外史」の最終編は、その60年に一度の”式年遷宮”があった”出雲大社”の画像に乗せてご紹介します。


ただし、本文と画像とは直接的な関係はありませんんで、画像の説明は省きます。

出雲大社中鳥居1
さて「古代出雲王朝」が滅びたことから、最終回のお話に入ります。実は、「古代出雲王朝」が、どのように滅びたか、史実として確かなことは分かりません。


「古事記」にも「日本書紀」にも、また「出雲国風土記」にも”国譲り”の話が出てきますが、それぞれ内容が微妙に違っています。


その中で「古事記」においては、”オオクニヌシ”は国譲りを承諾して、この国を“ニニギ”(アマテラス=天照大御神・アマテラスオオミカミの孫)に譲って自らは稲佐(いなさ)の海に隠れたということいなっています。


「出雲大社」の本殿に”オオクニヌシ”は祀られていますが、”オオクニヌシ”は人が手を合わせる方角を向いておらず、社殿の右端にいて、海の方を向っておられるそうです。

出雲大社
上の画像は”出雲大社古代の御本殿の模型”の画像です。(画像出典:ウィキペディアより)


有名な建築史家の説では、出雲大社本殿には巨大で長い階段がついていたといいます。それを元に復元したのが上の模型です。


その階段はおそらく、”オオクニヌシ”のお隠れになった海に向かうもので、”オオクニヌシ”の魂が宮殿と海の間を自由に行き来できるようにするために造られたものではないでしょうか。


その巨大で長い階段のことは、「出雲大社」の宮司家である出雲国造(いずもくにのみやつこ)”千家家”(せんげけ)に「金輪御造営差図」(かなわのごぞうえいさしず)が残されております。


なお「出雲大社」の宮司家である”千家家”は、古来”出雲国造”(いずもくにのみやつこ)を兼ねていた時代が長く続き、日本においては、現”天皇家”に並び称される家系を現在に伝えていることで有名です。


「出雲大社」本殿には直径1.35mの杉の大木を3本束ねて1本の柱としたものが9本建てられていたことが書き残されています。


それが現実のものであったことも、平成12年の調査で巨大な柱根が発見されたことで証明されました。


造営当時の「出雲大社」本殿の高さは、現在の「出雲大社」の2倍の高さの”16丈(48m)”もあって、奈良の大仏殿の高さ”15丈”を上回っていたといいます。

出雲大社参道3
さてオオクニヌシから国譲りを受けた「ヤマト王朝」の地上での始祖”神武天皇”は、日向から東征をして、紆余曲折あってヤマトの地にたどり着き土着の氏族連合を滅ぼしてヤマトを占領しました。


ところがその後、前王朝の祟りと信じられていた疫病や災害が次々と「ヤマト王朝」を襲います。


つまり「出雲王朝」の祟りと考えられた厄災は、第10代の天皇”崇神天皇”(すしゅんてんのう)の時代にも及び、悪性の疫病がヤマトを襲いました。


更に”垂仁天皇”(すいにんてんのう)の世も祟りは続き、「古事記」が作られた”斉明天皇”(さいめいてんのう)の時代にまで及びましした。

出雲大社拝殿4
なお「古事記」は、”天武天皇”の命によって”稗田阿礼”(ひだのあれい)が「誦習」(しょうしゅう=声に出して読むこと)していた『帝皇日継』(天皇の系譜)と『先代旧辞』(古い伝承)を”太安万侶”(おおのやすまろ)が書き記し、編纂(へんさん)したものとなっています。


ところが、ワタシは「古事記」を実質的に、”ある意図”をもって裏で編集した者がいる、という見方で本編を書いています。”ある意図”については最後に書きます。


上の見方は「古事記」編集の段階において「出雲大社の鎮魂」ということが、”重要な国家的課題”となっていたということを前提にそう考えたということです。


つまり「出雲大社」は何のために造られたかという謎は、そこに秘められているのでないでしょうか。

出雲大社拝殿しめ縄5
ここで、話を一旦前回の”荒神谷遺跡”から出土した”銅剣”や”銅鐸”に「☓印」が刻まれていた事を思い出して頂きたい。


その時、「ある方への鎮魂」の意味が込められているのではないか?ということを示唆しました。


これは、当時の日本人は「あの世」信仰を持っていて、人は死ぬと祖先たちの住むあの世に行き、お盆やお彼岸にはこの世に帰ってくるという信仰があったということを前提に書いています。


後に仏教の”浄土宗”が日本に入ってきて、素直に日本人に浸透していったのは、仏教(とりわけ浄土宗)が入る前の”縄文時代”から日本人は「あの世」信仰をもっていたからではないかと考えられます。


その「あの世」「この世」はどこがどう違っていると考えられていたか?

出雲大社楼門6
「あの世」は「この世」とほとんど変わりはないけれど、一つだけ大きく違うことがあって、あの世とこの世は万事があべこべとされています。


この世が夏であればあの世は冬、この世が昼であればあの世は夜。そこから、この世で完全なものはあの世で不完全。この世で不完全なものは逆にあの世では完全だと考えられていました。


ですから、「ある方への鎮魂」とは、あの方が大切にしていた銅剣や銅鐸を不完全なものにして(本来はバラバラに壊して埋葬する)地中に埋めたことを意味します。


つまり「ある方」とは、不本意にもヤマトに”国譲り”して稲佐の海にお隠れになった”オオクニヌシ”を指します。


不完全なもの、つまりバラバラに壊す代わりに「☓印」を刻んだのではないでしょうか。


あの世、つまり”黄泉の国”(よみのくに=死の国)を、銅剣や銅鐸を使って治めて下さいと祈り誓った行為が”荒神谷遺跡”等の遺跡の意味だったと思います。


現代においても、お葬式をする時、斎場にご遺体を送るとき、生前その方が使っていたお茶碗等を地面に叩きつけて割る風習が残っていますが、それも同じ意味合いです。


つまり”荒神谷遺跡”に大量の銅剣や銅鐸、更には銅矛を丁寧に埋めて、”黄泉の国”にいる”オオクニヌシ”の心安らぐ鎮魂の祈りとしたということだと思います。


この「出雲国の歴史・外史」の1回目に、「出雲大社の参道」は普通の神社とは異なり、”下り坂”という構造になっていることを書きました。その理由には諸説ありますが、「あの世」の世界では”万事があべこべ”という考え方が、ここにも示されているのではないでしょうか。

出雲大社楼門7
さて、次に「出雲大社」の建立の意味です。


ヤマト”(今の奈良県)に朝廷を開いた”ヤマト王朝”は、前王朝の祟りと考えていた様々な疫病や災害に悩まされていました。


そこで、国家的事業として「出雲大社」を建立し”オオクニヌシ”を祀り、鎮魂の意を込めた。その「出雲大社」建立の立役者は”藤原不比等”ではないかと想像しています。


そして「古事記」「日本書紀」の編集に、裏で大きく関わり指揮したのも”藤原不比等”ではなかったか?


さてここで”藤原不比等”について、もう一度おさらいしておきましょう。”藤原不比等”は、645年の”乙巳のクーデター”(世に大化の改新とも言う)で”中大兄皇子”の黒子として筋書きを練り実行に導いた立役者”中臣鎌子”(後に中臣鎌足、更に後に藤原鎌足=藤原氏の祖)の次男です。


藤原不比等”についての詳細は、1月7日にアップしました<「「愛媛の歴史特別編」・「日本歴史の夜明け・外史」 6>で詳しく触れています。ご参照頂ければ幸いです。(「愛媛の歴史特別編」・「日本歴史の夜明け・外史」 6

出雲大社神楽殿正面8
藤原不比等”は、”大宝律令”を実質的に自分が主導して作って政治の実権を掌握します。


その後ろには、”天武天皇”の后で跡を継いだ”持統天皇”と”元明天皇”及び”元正天皇”という3人の”女帝”の存在を背景にしていました。


3人の女帝は、”藤原不比等”の緻密で広大な構想力という頭脳と、それを着実に実行仕切る実行力に頼りました。


その3人に後押しされて、先ず”大宝律令”を作り政治の実権は”太政官”(だいじょうかん)が一手に握り、天皇はただ藤原氏政治の看板に仕立てあげたのです。今の象徴天皇制の萌芽はここにあるのではないでしょうか。


藤原不比等”は、次に”藤原京”から”平城京”への遷都も実現させました。


その次に手がけたのが「古事記」「日本書紀」編集への介入でしょう。


藤原不比等”が「古事記」と「日本書紀」の編集に意図的に介入したという証拠は「記紀」の内容です。


「古事記」に出てくる様々な神(例えば、”タカミムスビ”とか””オモイカネ”等の神々)は、当時政治を支配していた”藤原不比等”を思わせる神々が登場しますし、それ以外でも”藤原氏”に関係が深いとされる氏族を思わせる神が沢山登場しています。


それとは逆に、”藤原不比等”にとっては敵対者と思われる神も登場しますが、この世では実権を握れないことを暗示させる役割しか与えていません。

出雲大社神楽殿正面9
不比等”は、藤原家を1000年先まで永続させるために「古事記」などに、その意を密かに滑りこませ、それが見事に成功し実を結びました。


「記紀」は、言わば「大嘘つき」の天才がなしたことです。


真の「大嘘つき」とは、”99%の真実”の中に”1%の嘘”をそっと潜ませることが出来る者です。


99%の真実とは「出雲神話」です。自分の嘘を薄めるために、「古事記」と「日本書紀」の3分の1にまで及ぶ「出雲神話」を挿入したのは、1%の嘘が見破れないようにする仕組みだった。



では1%の嘘とは?


それは、藤原不比等の直系に限られる”藤原氏”が、未来永劫に日本の政治の実権を握り続けることができるという”正当性”を「古事記」と「日本書紀」の記述の中で、様々な”神話”に塗り込めたことを意味します。


事実、藤原氏は1000年以上に渡って日本の政治の主導権を握り続けました。


今回の4回のシリーズで書きたかったことは、「古事記」と「日本書紀」と「出雲神話」及び「出雲大社」には濃厚な関係性があり、その証拠として浮かび上がってきたのが昭和59年の”荒神谷遺跡”などの大発見であったということです。

出雲大社神楽殿しめ縄10
なお”天孫降臨”の伝説を持つ天皇家の神は”アマテラス”(天照大神)ですが、ご承知の通り”伊勢神宮”に祀られています。何故、天皇家が長くいた奈良、或いは京都ではないのか?っという素朴な疑問があると思います。


それについては”日本書紀”に書いてありまして、”崇神天皇”(すじんてんのう=3世紀から4世紀に第10代天皇とされ、まだヤマトにいた)の時代に疫病が流行ったときに、崇神天皇は”天照大神”と出雲の神”倭大国魂”を宮の中に祀ったとあります。


ところが同じ宮の中に祀ったため神さま同士が喧嘩して、疫病が治まらなったとあります。そこで宮から出して、自分の娘たちに祀らせたが全く効き目がなかったといいます。


その時、夢で”オオクニヌシ”のお告げが出て、”オオクニヌシ”の子”オオタタネコ”(大田田根子)に祀らせれば収まると言った。早速”オオタタネコ”(大田田根子)を探しだして祀らせると疫病は治まった。


そこで、それまで”ヤマト”(今の奈良県)の”三輪山”に祀っていた”天照大神”を”伊勢神宮”に移したというのが、史実に近いのではないかと思います。


実際に伊勢に移したのは、”垂仁天皇”(すいにんてんのう=皇室の系図から言えば第11代の天皇)の第四皇女である”倭姫命”(やまとひめのみこと)とされ、”天照大御神”の神魂・八咫鏡(やたのかがみ)を鎮座させる地を求め旅をして、最終的には近江から美濃を過ぎて、現在の伊勢に至ったとされています。

出雲大社神楽殿しめ縄11
なお、”ヤマト王朝”ができる以前の「伊予国」は、「出雲国」の影響を大きくうけていました。そのことは、松山地区に多く残っている「出雲系神社」の存在でも裏付けされています。


昨年40回に分けて書きました「松山市の地名・町名由来」でも、「出雲系神社」の存在を幾つか採り上げています。まずは以下の記事です。(「松山市の地名・町名由来」・ 「祇園町・中村」 14)の”「松山市の地名・町名由来」・ 「枝松町・拓川町他」 30で書いた”素鵞神社”等々です。


北条市などと合併する前の「松山市」には”愛媛県神社庁”によりますと、全部で125の神社がありますが、その内で”素鵞神社”が10社、”須賀神社”が1社、合計11社あります。


様々な神を祀る神社な多い中で”素盞鳴尊”(スサノオ”を祀る”出雲系神社”が一割近くを占めていることでも、その濃厚な関係がうかがえます。


さて、1月1日から書き始めました”愛媛の歴史特別編”の全18回のシリーズを、この号を持ちまして書き終えることに致します。


最後は、駆け足での説明になってしまい分かりにくかったかも知れません。ただ遠い過去から現代まで、連綿として続いている人の営みの結果が”歴史”です。


歴史”は決して無味乾燥な言葉や年代の羅列ではなく、その行間にあふれている”人の息吹”をたどることに他なりません。


長いシリーズに目を通していただいた全ての方に深甚なる謝意を表して筆を置きます。ありがとうございました。


これでワタシが書きたいと考えていた”主な歴史的テーマ”は、ほぼ書き終えることが出来ました。従って、当分の間、”歴史”をテーマに語ることはないと思います。


また語りたい”歴史的テーマ”が見つかるまでは、この分野はお休みします。





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ありがとうございます

じゅん様

 おはようございます。

 歴史シリーズの完結おめでとうございます。
 古代歴史には興味がなかったのですが、
 じゅんさんのわかりやすい解説で、なんとなく
 つながったような感じがします。
 
 まだまだ十分には理解できてないですが、
 また、じっくりと読ましたいただきます。

ありがとうございました

せい爺様

こういう特殊な分野にまでコメント頂き、ありがとうございました。

中々馴染みの薄い世界ですよね。私が子供の頃には、絵本で「お伽噺」として接していました。

ところが、その後の歴史的発見で、随分と語り継がれていた内容と実際の歴史が違っていることに気が付きました。

そして、偶然に出雲を旅する機会を得ました。兄弟で行った奈良・京都の旅を「歴史物」としてまとめていった過程の中で、出雲の歴史が繋がりました。

まだ頭が確かな内にまとめておきたいと思ったのが、書いた動機です。1月1日からの全18回のシリーズとして読んでいただければ幸いです。

貴重なコメント、ありがとうございました。

残念ながら

FM様

せっかく、この珍しいと言いますか、余り馴染みがないテーマにコメント頂きましたが、そのコメントの内容に微妙な部分が含まれていました。

私は「出雲の歴史」を、日本の歴史の流れの中に溶かし込んで一体のものとして書きました。でも、これは飽くまでも歴史的な問題の記述に徹しました。

様々に思いを巡らさせることは素晴らしいことだと思います。それを否定するものではありませんが、事は「感じ、想像したことを書き連ね」たら、それはそれでいい!というほど単純な問題ではありません。

従って、FMさんのコメントは承認してオープンにすることは出来ませんので、悪しからずご理解下さい。

ただ、「愛媛グルメ紀行」以外の、私のもう一つのライフワークである「歴史」をテーマにした記事に、様々な思いをはせて頂いたことに対しましては感謝致します。ありがとうございました。

やっと読めました

じゅんさま

またまたご無沙汰しております。
ようやく楽しみにしていた「出雲編」を読むことができました。
想像以上の大作でしたが、一気に読み進めてしまいました。

確かに私の世代では出雲の神話に触れる機会はほとんどなく、ヤマタノオロチや因幡の白兎の話をぼんやり知っている程度でした。

でも神話と史実が実は結びついていて、後世の権力者によって都合よく書き換えられているといった考察はまるで小説を読んでいるようでワクワクしました。

子供のころ行ったきりの出雲大社ですが、じゅんさんの写真を見ていたら、なにやら誘われているような気がしてきました(笑)。
いつか家族で行ってみたいと思います。

じゅんさんの歴史シリーズのファンとしては、しばらくお休みというのは寂しい限りですが、また新たなテーマを見つけて記事にしていただけたらいな~と期待を込めて待っていたいと思います。

追伸:私の勘違いでしたらすみません。出雲の1回目の記事に、11月が神無月とありますが、10月ではないですか??

お久しぶりです

百蔵様
お久しぶりです。お元気そうで何よりです。嬉しいです。

出雲シリーズを読了出来たということは、皆さんお元気ということでしょうから、そちらのほうが嬉しいですね。^^

さて、「出雲の歴史」は書いている私が、推理小説を書いているようで楽しかったです。

歴史のジグソーパウルで、まだ埋まっていないところにピッタリ当てはまるピースを見つけて、ソロっとはめ込んでみた。

すると、見事に落ち着いた。その時の喜びは格別でした。自分で書きながら「ああ、そうだったんだ!」って納得しながら書きましたから。

でも、アレはアレで大きな仕事で、かなりのエネルギーを使いました。現在、仕事が忙しいという面はありますが、それより、今は充電期間です。

そして新たなテーマ探しです。通常は、お正月に書くテーマは、この季節から準備をしないと間に合いません。来年のお正月には間に合わないかも知れませんね。

最後に、神無月、あれ~~~ーー間違っていましたね。ええ、10月ですよね。完全な勘違いでした。早速、記事を訂正しておきます。ありがとうございました。

早く抱っこさせて下さいね!!  ^^

出雲国造はイズモコクソウと読むとおもいます

古い記事に

しゅん様

古い記事で、しかも多くの方には馴染みがない記事にコメントいただきありがとうございました。
「出雲国」の歴史を書くに当たり、かなりの文献を読みました。そして実際にこの足で、「出雲国」を旅し、古代の「出雲国」に思いを馳せたことを昨日の様に記憶しております。

さて「出雲国造」の呼び名ですが、「いずものくにのみやつこ」とも「いずもこくそう」とも呼ぶという認識をしています。

地元の方々は「こくそう」さん、あるいは「こくぞう」さんと、親しく呼び習わしていると認識していますが、もちろん「いずものくにのみやつこ」という呼び名も間違いではないと思います。

間違いと言ったつもりはないです
ただ、出雲の宮司は、出雲国造はイズモコクソウと読みますと、書籍やテレビで話されていたもんで。紀伊や阿蘇はコクソウと読まずコクゾウと読むと。
ただの豪族でなく
天孫だと言いたいのかもしれませんが。
少彦名命なども取り上げて、また楽しい記事をよませて頂きたいです。

ありがとうございます

しゅん様
お返しのコメントありがとうございます。
そうですか!宮司さんが「いずもこくそう」と読むと言われた。それは知りませんでした。勉強になりました。

さて私が書いておりますブログの一分野の「歴史物」へのリクエストを頂きありがとうございました。嬉しいですね。
私が「歴史物」を書く時気を付けていますことは、私は歴史の素人なので、素人の私にでも分かるように書くということ。それと、自分の言葉で書くと言うこと。そして、「歴史物」を書く時は、必ず現地を踏査して現地で浮かんだイメージを大切にすることの3点です。
リクエストを頂きましたが、今私は妻の健康問題を抱えております。つまり現地踏査が出来る環境にありません。しかし、妻の健康が回復すれば、又歴史の世界をさまよってみようと思っております。歴史は私の生涯のテーマですので。
改めてコメントありがとうございました。

奥様、早くお元気になられる事をお祈りいたします。
松山の町名の歴史からジュンさんの記事を楽しませてもらいました。
私は大工で中卒のただの歴史ずきです。
ですから、出雲大社の建築様式を知りたくて以前 調べたことがあります。
この前リクエストしたのは、日本書紀の付文の伊予風土記に宮司が、私は須佐之男命の子孫だといわれる←笑
や伊予湯を大分から彼の為に引いた←笑
など地元と出雲の関係が楽しいです。
天山編でジュンさんも引用されてましたが。
私は間違いがあるなんて言ったつもりなどないです。
宮司が間違いかも知れないのですから。
それは歴史の醍醐味なのでは?
邪馬台国は四国にあった!て真面目な書籍があるのですから!
松山の町名歴史を私はジュンさんから学び仕事の合間に楽しませて頂きました。
奥様の御病気は残念ですが、また、楽しい歴史の記事をお願いいたします。

本当に嬉しく思います

しゅん様
再度のコメント、ありがとうございました。しゅんさんとワタシの歴史に関する知識にそう変わりはないと思います。前回も書いたかも知れませんが、ワタシは「歴史」に関しては全くの素人です。しゅんさんと同じように、ただ「歴史好き」なだけです。

でも関心が出てきた歴史に付いて調べていますと、その世界に引き込まれるのです。「もっと知りたい!真実は、歴史の裏側はどうだったんだろう?」っと言う好奇心に駆られるのです。そこからスタートして、知りたい歴史に関する文献を読み、現地の踏査を経て、文献に書いてあることを自分のものにしたいという姿勢で歴史物を書いて来ました。

「松山の地名」シリースにしても、調べていく過程で新しい松山という地名に関する様々な要因に目を張りました。

幾つなっても、知りたいことがあるうちは、青春です。妻との生活を大切にしながら、ワタシの歴史的好奇心を追っかけてゆきたいと考えています。

プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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