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「愛媛県外特別編」・「兵庫県豊岡市・出石町」

今日は、先月”出雲の歴史”を取材する為に小旅行した際に、途中で通過した町、兵庫県豊岡市”出石町”(いずしまち)をご紹介しましょう。


昨日一足お先に、出石町名物の”皿そば”をご紹介したばかりです。その際に、城下町”出石町”を散策しましたご紹介です。


この”出石町”を含む”但馬国”(たじまこく)は、「古事記」「日本書紀」にも名前の見える歴史の古い町です。


但馬開発の祖神ともいわれる新羅(しらぎ=朝鮮王朝の一つで国府は今の慶州)の王子”天日槍”(あめのひぼこ)が、垂仁天皇3年(第11代天皇)に渡来してこの地を拓いたと伝えられ、出石町の町名も、”天日槍”(あめのひぼこ)の宝物である”出石小刀”に起因したといわれています。


現在の兵庫県豊岡市出石は、人口僅か1万人余りの町ですが、旧”出石藩”の城下町です。現在も残る風情のある町並みは、「但馬の小京都」と呼ばれて、土日ともなると多くの観光客でにぎわいます。

出石町辰鼓楼(しんこうろう)1
上の画像は、”辰鼓楼”(しんこうろう)と呼ばれるもので、明治時代初期の時計台です。豊岡市出石伝統的建造物群保存地区を代表する建造物で、”出石町観光”は、先ずこの時計台からスタートです。


この時計台は、1871年(明治4年)完成しています。完成当時のこの時計台の目的は、辰の刻(7時から9時)の城主登城を知らせる太鼓を叩く””として建てられたもの。


なお、上の説明で”城主”の名前が出てきますが、藩が廃止され、全国に県が置かれた明治の”廃藩置県”も、この時計台が完成した時と同じ1871年(明治4年)のことです。


この、”辰鼓楼”(しんこうろう)が完成した年に廃藩置県が行われましたが、藩と県が併存した端境期にあったために、まだ”藩主”(後に旧藩主となりますが)の存在があったのでしょう。

出石町辰鼓楼(しんこうろう)2
この”辰鼓楼”(しんこうろう)は、”日本最古の時計台”とされることが多いのですが、北海道の札幌農学校演武場に”時計塔”(現在札幌の時計台)が設置されたのもほぼ同時期で、どちらが最古であるかを確定するのは難しいようです。


ただ、建物から独立した”洋式時計台”、更には一般市民が時刻を共有するための洋式時計台としては、最古のものと一般的に言われ、市民からも親しまれているところです。

出石町おりゅう灯籠3
上の画像は”おりゅう灯籠”と言われているもので、出石町にある”船着場の灯台”、常夜灯です。


出石町は山の中にある町ですから、”船着場の灯台”と言われれば???となるかも知れませんね。


この”おりゅう灯籠”の脇を流れる谷山川(旧出石川)は、かつて川幅も広く水深も深くて、日本海から三十石船が入れるほど広かったのです。ここの船着場から、米や木材などを三十石船に積んで日本海に運び、下関から瀬戸内海を廻って大阪・京都に荷揚げしていたのではないでしょうか。


なお”おりゅう”という名前は、鎌倉時代の悲恋物語の主人公”おりゅう”に因んだものとされていて、灯籠のすぐそばには柳の木があり、おりゅうと恋人が寄り添う様子を表したものです。

出石城址4
この画像が、”辰鼓楼”(しんこうろう)近くの広場(旧出石町役場近く)から見た”出石城址”です。


”出石”の由来は、日本がまだ”倭国”と言われ、天皇はまだ”大君”と呼ばれていた時代に遡ることは冒頭に書きました。


さて、旧国名で言えば”但馬国”(たじまこく)に属していた”出石”の歴史はどうだったのかを以下に書いていきます。

出石城址5
画像で見えるのは”出石城址”ですが、天守閣は残っていません。画像は”隅櫓”(すみやぐら)です。


さて、この”出石町”は、古くは鎌倉時代に清和源氏系統の大名として名を起こし、南北朝時代(14世紀)に全盛期を迎え”山陰の勇”として名を馳(は)せた”山名氏”(やまな し)一族が支配していた地域です。


その山陰の名族であり支配者となった”山名氏”は、一時期”室町幕府”を開いた”足利尊氏”(あしかがたかうじ)の傘下でした。


その最盛期には、全国66か国中11か国の守護職を務める”六分の一殿”と称されて権勢を誇りました。

出石城址6
しかし室町時代末期から戦国時代を経て、勢力を徐々に落とします。その後戦国時代の荒波を経て、江戸時代にやっと安定期を迎えます。(明治期まで続いた山名家は、明治に入って男爵に叙せられています)


それが、昨日も書きました”宝永3年”(1706年)、”仙石越前守政明”(せんごくえちぜんのかみまさき)が信州上田城より国替えとして、但馬国出石藩の”出石城主”となり、以降”仙石氏”の時代が明治期まで続きました。


この信州上田城に端を発する”仙石氏”の一族の中の””仙石秀重”(せんごく ひでしげ=後の束本秀重)が、松山城を築いた”加藤嘉明”に伴って伊予国松山に来たことは、「松山市の地名・町名由来」に書いています。(「松山市の地名・町名由来」・ 「束本町・樽味町」 33

出石城址7
江戸時代は”仙石家”の城下町となって発展した出石ですが、明治9年の大火により80%以上の建造物を焼失したという過去を持っている町でもあります。


その後の出石の町並み再建には、1810年(文化7年)の町割絵図が残っていたため、その町割絵図に従って江戸時代の町並みの状態をほぼ完全に再現されました。


しかし、ここ出石は出石郡の中心地であったために、町の近代化とともに歴史的建造物の建替えが進むという事態に直面しました。


そこで町として、”重要伝統的建造物群保存地区”選定の申し出(平成19年文部科学大臣選定)をするなど、景観の保護を法的に強化しておられ、今日もなお江戸時代の町並みが残る貴重な地域となっています。

出石城址8
なお、この”出石町”のような古い町並みを今に保存している地区が愛媛にもありますね。


それが”内子町”です。内子には、「国選定・重要伝統的建造物群保存地区」に指定された”内子町八日市護国伝統的建造物群保存地区”が今も残っていて、江戸時代の息吹を今に伝えてくれています。


なお”内子町”の町並みは、今年の10月15日に記事としてアップしております。(「再訪 167 内子町 片岡食堂」・「愛媛グルメ紀行」 613


しかし、”出石町”と”内子町”では、世間の注目度も違いますしそこに訪れる観光客の数では到底比較対象にはなりません。単に本州と四国という地理的条件の違いだけでしょうか。

出石城址10
この画像は、”出石城跡”から””辰鼓楼”(しんこうろう)を望んだ風景です。


”出石町”というところは、狭い小さな町ですが、”重要伝統的建造物群保存地区”を中心としてその界隈に”出石そば”を出す50軒弱の”蕎麦屋”が軒を連ねています。


出石町の名産は、出石そばを始めとして、出石焼・但馬ちりめん(出石ちりめん)・出石たくあんなどで、決して派手で目立つものではありません。


それでも、京阪神からだけではなく全国から多くの観光客を呼ぶ理由は何でしょう?


近隣に散在する、”出雲大社”や”足立美術館”、更には”鳥取砂丘”や”山陰海岸ジオパーク”など、”山陰地方の総合力”、優れたエネルギーとパワーを感じずにはおれませんでした。


わが愛媛の観光に於いても、学ぶべきところが一杯に詰まった魅力的な町でした。





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プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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