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「愛媛の歴史特別編」・「出雲国の歴史・外史」 1

今日の10日を皮切りに、以降毎週月曜日の17日・24日・31日の4回は、1月1日から書き始めました「愛媛の歴史特別編」の、全14回のシリーズの続編としまして、「出雲国の歴史・外史」を書きます。(なお”外史”とは、何時も書きますように歴史の素人が書いた歴史モノを言います)


今日はその1回目です。この後3週間後の最終編を持ちまして、「愛媛の歴史特別編」と題した、全18回のシリーズを書き終えることに致します。


この4回のミニ・シリーズ”「出雲国の歴史・外史」”を書くに際しては、今までは単なる”神話”であるという決めつけられ方をしていた”出雲神話”を、先ず先にご説明しておく必要があります。


出雲神話”に限らず、日本古来の様々な”神話”や”説話”などは、ワタシの年代の者にとって子供時代に”絵本”で慣れ親しんできました。ところが、年代が若い方は”神話”に一度も接したことがない方が圧倒的でしょう。


この4回のミニシリーズで、古来より伝えられてきた”神話・説話”を、より身近に接していただけたら本稿の本分とするところです。

出雲大社大鳥居1
なお”出雲大社”には4つの”鳥居”があります。上の画像は、神門通りの手前の宇迦橋に堂々とそびえる大鳥居で”一の鳥居”と呼ばれるものです。コンクリート製で、大正時代に立てられました。日本一大きい鳥居です。


過去の歴史家は、「出雲神話」を全くのフィクション(作り話)としていました。それは、出雲神話ばかりか日本の神話そのものの多くはフィクションとした”津田左右吉”説に大きく影響されたことによります。


津田説の影響のみならず、当時”出雲神話”は単なる神話ではなく、歴史的事実に基いているという科学的根拠もありませんでした。


つまり、その神話を裏付ける考古学的遺跡がなく、40年ほど前までは、出雲にはそのような遺跡は存在しないと考えられていました。


ところが、上に書いた今までの通説の方が実は間違いであったことが分かってきました。遺跡の発見により、通説が間違っていたことが明らかになったのです。以下に、その経緯と事実を書きます。

出雲大社参道2
出雲大社”には、上に書いた”一の鳥居”の他に”ニの鳥居”(勢溜(せいだまり)の木の鳥居、”三の鳥居”(松の参道の鉄鳥居)、”四の鳥居”(境内へと結ぶ銅鳥居)があります。


この画像は、”二の鳥居”をくぐって”三の鳥居”を目指す参道です。この参道は、本殿に向かって下り坂になっています。下り坂の参道は大変に珍しいものです。(なぜ参道が下っているかの考察と書きますと長くなりますので、省略します)


今日は主に、日本最古の歴史書である”古事記”と”日本書紀”が”出雲神話”をどう書いているのか?をご紹介します。


712年(和銅5年)に、”天武天皇”の命を得て、太安万侶(おおのやすまろ)によって朝廷に献上されたとされる日本最初の”歴史書”が”古事記”です。


なお”古事記”の原本は存在していません。”写本”が幾つか残っているだけです。


一方”日本書紀”は、、奈良時代に成立した日本の歴史書で、日本に伝わり残っている”最古の正史”です。。神話の時代と言われる”神武天皇”の時代から”持統天皇”の時代までの記録です。


なお”持統天皇”につきましては、1月1日から7日までの全6回に分けて書きました”日本歴史の夜明け・外史”の中の、第4話で詳しく触れ、全6回の主役としてご紹介しています。(「愛媛の歴史特別編」・「日本歴史の夜明け・外史」 4

出雲大社祓社3
上の画像は、”出雲大社大祓社”です。


さて過去の歴史家は、「出雲神話」を全くのフィクションとしていました。ところがそれまでの通説が、昭和59年(1984年)の「荒神谷遺跡」(こうじんだにいせき)の発見によって吹き飛んでしまったのです。


この「荒神谷遺跡」の詳細は、24日の3回目で詳しく書きます。


しかし、この発見によって、「出雲」には壮大な神話に相応しい考古学的遺跡はないという通説は見事にひっくり返り、「出雲神話」は全く架空の物語とした過去の説は意味を成さないことになったのです。

大国主大神と幸魂奇魂4
上の画像は”大国主大神と幸魂奇魂”(オオクニヌシと、さきたま・くしたま)です。詳細な説明は省きます。


そこで今日は、それまでは架空の物語、単なる「神話」だとされてきた「出雲神話」とはどういう話なのかを振り返ることから「出雲国の歴史・外史」の筆を起こすことにしましょう。


なお、今回書きます「出雲国の歴史・外史」の主要参考文献は、黒岩重吾氏の「古代史への旅」と梅原猛氏の「葬られた王朝」を参考にさせて頂きました。その他にも何冊か読みましたが、取るに足りませんでした。


ワタシは古代史を含めて”歴史”を正式に学んだり研究したりした経験がありませんので、当然に”古事記”の写本であろうが、”日本書紀”であろうが、その原典を読み下す知識と能力はありません。従って、「記紀」を論じた書籍を参考に記述する他ありません。


さて日本最古の歴史書である「古事記」「日本書紀」は、何故その記述の3分の1を占める程に「出雲神話」にこだわったのか?

大国主大神5
上の画像は、「出雲王朝」を開いた”スサノオ”から6代目の”オオクニヌシ”(大国主大神)です。


「ヤマト王朝」の正当性を述べるために書かれた「記紀」なのですから、自分たちの王統(大君家<後の天皇家>)の正当性に絞った記述をするのが自然だと思いますが、でも延々と「出雲神話」を語っています。


そうせざるを得なかった理由があるはずで、そのことは最終回の4回目に書きます。


「出雲神話」を書く前に、「記紀」(きき=古事記と日本書紀を総称するときに使います)が書いている「高天原神話」(たかまがはらしんわ=地上の神話ではなく、架空の天上の神話)の内容に触れます。


何故かと言うと、そこには「ヤマト王朝」(天孫民族<てんそんみんぞく>とされた)と、「出雲王朝」とは関係が深いということが書かれているからです。

大黒様と白兎6
上の画像は、”因幡の白兎伝説”を表したものです。


「古事記」・「日本書紀」、つまり「記紀神話」「高天原神話」(たかまがはらしんわ)、「出雲神話」「日向神話」(ひゅうがしんわ)の三つの神話から成り立っています。


その内の一つ「出雲神話」です。「記紀」の中でも特に「古事記」にその記述が集中しています。


それ以外でも、「出雲国風土記」及び「播磨国風土記」、更には「伊予国風土記」の逸文にもその一部が記されています。「出雲神話」の具体的内容は次回で触れます。

出雲大社銅鳥居7
上の画像は”出雲大社銅鳥居”です。


その「古事記」によれば、”アマテラス”を開祖とする「ヤマト王朝」の前に、”スサノオ”を開祖とする「出雲王朝」が、この日本の国を支配していたとされています。


この”スサノオ”には、「記紀」によれば、出雲の神となる以前に、高天原(たかまがはら=天上の国)を舞台とした前史があるとなっています。


その前史を語ると長くなるので省略しますが、「出雲王朝」の祖先神”スサノオ”と「ヤマト王朝」の祖先神”アマテラス”は姉弟という関係だと書かれています。


「高天原神話」には多くの神々が登場しますが、それら多くの神々の最後に現れた”イザナギ”(男神)という神と”イザナミ”(女神)という神が日本という国と、日本国にいる様々な神を産んだとされています。

出雲大社拝殿8
上の画像は”出雲大社拝殿”です。


アマテラス”も”スサノオ”も「イザナギ・イザナミ」が産んだ神です。”イザナミ”が産んだ”アマテラス”(女神)が一番上の姉、二番目が”ツクヨミ”(男神)、そして三番目が”スサノオ”(男神)です。


しかし、兄の”ツクヨミ”は影が薄い神だったので、事実上は”スサノオ”が、「イザナギ・イザナミ」の嫡男とも言える神でした。


ですから”スサノオ”が日本国を支配する神とされていましたが、”スサノオ”は黄泉の国(よみのくに=死者の国)で暮らす母”イザナミ”を慕って、父”イザナギ”から命じられた日本国の支配に立ち上がりませんでした。

出雲大社拝殿しめ縄9
上の画像は”出雲大社拝殿しめ縄”です。


スサノオ”は父に従わなかった罪で「根の国」(ねのくに=今の島根=出雲地方)に流罪となり、「出雲王朝」を作り上げます。


なお”スサノオ”を漢字に当てると「素盞鳴尊」と書きます。松山にも多い「素鵞神社」「須賀神社」「素盞鳴尊」(スサノオ)を祀っている神社で、この事は4回(最終回)で触れます。


このように、「イザナギ・イザナミ」はその子孫によって二つの系統の神に分かれました。

出雲大社西十九社10
上の画像は”出雲大社西十九社”です。他に”出雲大社東十九社”があります。


これは10月”神無月”(かんなづき)には、全国の神々が縁結びなどの相談をするために”出雲大社”に出張してきますが、この合計三十八社で全国の神々をお迎えする、とされています。


なお全国で”出雲国”(今の島根県)だけは、10月に全国の神々が出雲国に結集しますので、10月を”神在月”(かみありづき)と称します。


上に書きました2つに分かれた系統の、その一つが”イザナギ”⇒”アマテラス”⇒アマテラスの孫の”ニニギ”の「ヤマト王朝」です。


もう一つは”イザナミ”⇒”スサノオ”⇒”オオクニヌシ”の「出雲王朝」の系統です。


上に書きました”ニニギ”が、”アマテラス”の寵愛する孫神として高天原から「葦原中つ国」(あしはらなかつくに)である日本の国に降り(これを天孫降臨<てんそんこうりん>という)、そしてやがて”カムヤマトイワレヒコ”、つまり”神武天皇”を初代とする天皇家の祖先となる。これが、記紀に書かれている話です。


この話、次回に続きます。




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久々にコメントさせていただきます(*´∀`*)

じゅんさん、こんばんわー。
遅くなりましたがやっと来ましたよ~w

じゅんさんと一緒に見た風景がズラリ。
写真を見ていると懐かしいような、でも
ついこの間のことのような、不思議な感覚に襲われます。

そう言えば、参道が下り坂になっている理由については
ご一緒の際にも結局聞けずに終わっていました。

出雲大社は作法や風習に独特のものがあり、
注連縄も通常とは逆の巻き方だとか。
そして、この参道の作りも逆。

父の意に従わなかったスサノオ。
反逆。
根の国への流罪。
枝分かれしてしまった神の系統。
一方は天皇の祖先として祀られ、
そして一方は…

下り参道の意味というか、そのヒントのようなものが
記事中に散りばめられているような、無いような???

http://blogs.yahoo.co.jp/shinmon_y/16308036.html
でも、私は↑の方が書かれている説も好きだなぁー。
「参道を下ることは、へりくだること」
己をへりくだり、敬意を表せよ。
俗世の穢れを祓い、原始の姿にくだれ。
奥底にある心を、剥き出しの心を、見せよ。見つめよ。

勝手な解釈ですけどネ~( ̄▽ ̄;)

全ては「逆さま」

ジンゴズンゴ様

オホホーーー、キャーーー!久々のコメントですね。却って恐縮します。

本当に、つい先日の様に私も感じております。ジンゴズンゴさんが居てくださったが為に実現した「出雲旅」です。想を、ずっと温め続けて、「朱雀の宝物」の様に、記憶と記録と諸説を紐解きました。

そして、やっと「自分の言葉」で語ることが出来ると思った瞬間に、ほとばしり出た記事です。一種の射◯の様な感覚で、筆を走らせました。

ところで、「下り参道」の意味といいますか、理由を旅の中でも語りませんでした。そして今回の4回のミニシリーズでも、明確には書いておりません。それは諸説様々であることもありますが、4編の記事全体で「出雲大社」が何故作られたのかを示す、重要なポイントだと考えましたので、4編にそのヒントを巡(めぐ)らせた、に留めました。

さすが「畏友」ジンゴズンゴさん、私の意図を正確に理解なさっていますね。いささか驚きました、感服いたしました。

「へりくだり」説、実は知りませんでした。ああなるほど!っと、思いました。ご教示に感謝致します。

ただ、最後の4編目で書きましたが「全ては逆さま」が、「下り参道」の意味を解く鍵だと思っています。何故、「全てを逆さま」にしたのか?
日本人が持っていた生死感やあの世感に通じるものです。

最後まで明確には書いていませんが、ジンゴズンゴさんが指摘なさった、全編を通じて、その意味することを内示した、そういう記述方法を採りました。定説がない場合の、一つの方法だと考えたからです。

二つに別れて、運命を大きく異にした二つの皇統。敗れた側の皇統を、勝ち残った側の皇統が、なぜ慮(おもんぱか)ったか?全編で語ります。乞うご期待。
プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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