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「愛媛の歴史特別編」・「京都 本能寺」 13

今日は、京都の”本能寺”をご紹介しましょう。


本能寺”(ほんのうじ)は、京都府京都市中京区にある、法華宗本門流の大本山です。


ですが”本能寺”が歴史に残るようになったのは、何と言っても”明智光秀”が”織田信長”に謀反を起こし信長を滅ぼした”本能寺の変”でしょう。

本能寺石碑7
本能寺”の門前に立ってみますと、驚くほど普通の市街地に建っています。天皇が住んでいた”京都御所”とは、言わば目と鼻の先です。


本能寺が元あった場所と現在の本能寺は別の場所なので、今の印象だけで語ることはできませんが、何れにしても京都御所にほど近い場所にあったことは間違いありません。


ただし”織田信長”が泊まるほどの寺なので、堀をめぐらし土居を築き、これを仏殿や殿舎で取り囲んだ、小さな城、一種の要塞の体ではありました。


なお、”本能寺の変”の主役となった”明智光秀”は、四国とは(特に高知とは)縁の深い武将でしたので、”村上水軍と河野氏”の歴史を書きました時に、”明智光秀”についてもかなり詳しく書いております。(村上水軍と河野氏、そして土佐の長宗我部氏との関係 4

本能寺山門8
さて”本能寺の変”です。”織田信長”は、中国の”毛利氏”を攻めるために”羽柴秀吉”を既に中国に派遣し、連日激しい戦いが続いていた天正10年(1582年)5月29日に、わずかに30人ほどの供の家来を伴って安土城を出て京都に向かいました。


既にその時、信長は”明智光秀”にも”亀山城”から中国攻めに加わるよう命令しています。


そして信長は京都に到着した6月2日、大勢の客を本能寺に迎えて盛大な茶会を催しています。40人余りの公家たちや茶人、大商人たちが次々と信長の”武田家殲滅”(たけだけせんめつ=織田信長が、甲斐の武田信玄亡き後の武田勝頼を攻め滅ぼした戦い)を祝う言葉を述べました。


客達が帰り、しばらくして信長は寝所に入ります。かなり酒も飲んでいたので、グッスリと寝込んでいたのではないでしょうか。

本能寺本殿9
その日の真夜中、信長は周囲のざわめきにめを覚ましました。まだ夜明け前、重い闇(やみ)に包まれているころだったと思います。

そのざわめきは、やがて門の扉を破る音、人の悲鳴や叫び声に変わりました。”森蘭丸”などの信長近習の家来たちも目を覚まし、信長を取り囲んだことでしょう。

突然鳴り響く鉄砲の音。森蘭丸が信長に対して大声で、「殿、明智光秀様、謀反でござります!」っと叫びます。

信長は、まさか明智光秀が謀反を起こそうなどということは考えたことがありませんでした。今頃は亀山城からまっしぐらで中国筋に向かっているはずであると思っていたからです。

本能寺本殿
しかし、戦国時代の武将である信長は、咄嗟に「刀をもて!弓をもて!」と、戦いの支度をしながら指示を飛ばします。

女たちを先ず逃がせ!」っと命ずるや、信長は覚悟を決めました。信長自身がその才能を見出し、今日まで異例の取り立てをして出世させた光秀に謀反を起こされた、というそのことに信長と言えども大きな衝撃を覚えたに違いありません。

その”明智光秀”軍、13、000人に、本能寺は完全に取り囲まれていました。

幾ら一種の要塞のように固めたとはいえ、13、000人を相手に勝ち目などあろうはずがないことは、織田信長自身が一番良く知っていたはずです。

本能寺本殿10
この夜の戦いは短い時間で決着がついています。

織田信長”は、弓の弦が切れると、十文字の槍を縦横無尽に振り回して、次から次へと明智軍に立ち向かい、最後まで戦い抜きました。命を捨てる覚悟はできていましたから、その戦いぶりたるや、正に”鬼神の如し”であったことでしょう。

そして「もはやこれまで!」っと最後を悟ると「わしの首を渡すな!」と森蘭丸に命じ、自分は一番奥の部屋にこもって中から戸を閉め、素早く自ら火を放っています。

そしてその場で見事に腹を切り、信長49歳の生涯を閉じました。

本能寺僧坊
明智光秀”は、美濃の国、明智庄にその端を発し、光秀の父”明智光隆”は、稲葉山城主”斎藤道三”傘下の武将として”明智城”を守っていました。


明智家は、後に”斎藤道三”とは袂を分かち、越前の”朝倉義景”の世話を受けていて、その時”明智光秀”と”織田信長”との接点が生まれています。


光秀は、初めて信長に出会った日から「今にきっと、この天下は信長のものになるに違いない!」っと見抜き、それ以降信長に一身を預け信長のために働き続けました。


その”明智光秀”の忠心からの働きを信長も認め、周囲の武将の嫉妬を集めるほどに出世させました。ただ、光秀は知謀型武将で、憎めない人柄で出世を続けてきてライバルとなった”羽柴秀吉”とは、何れ雌雄を決せざるを得ない日が来ることも頭のなかにあったのでしょう。


羽柴秀吉”(後の”豊臣秀吉”)が、その時”毛利氏”に対する中国攻めで動くに動けない状況下にあることも頭を過ったかも知れません。


ただ、”光秀”自身も、「敵は本能寺にあり!」っと、馬頭の向きを変えるため手綱を引き締める寸前まで、自分の行く末に確信を持っていたとは思えません。”光秀”が、”信長”に背いた真意は永遠に謎です。


明智光秀”がその日から生きていたのは、11日間でした。


この”本能寺の変”の僅か3年後、四国の運命を大きく左右する、”豊臣秀吉”による”四国攻め”が始まりました。時に、1585年年(天正13年)5月4日のことでした。(村上水軍・河野氏・長宗我部氏と豊臣秀吉の四国攻め 5


本能寺の変”は、それまでの戦国の世から、”桃山・江戸という封建時代”に大きく流れを変えるキーポイントとなりました。


さて、来週3月3日が、1月1日から書いてきました”愛媛の歴史特別編”の最終回、第14回です。



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プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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