「「東洋のマチュピチュ・別子東平」 その 3・「過去記事を振り返る」 90
今年に入って最初の”過去記事を振り返る”シリーズは、2012年1月2日から4回に分けてご紹介したシリーズを、先々週から始めて、今週と来週の月曜日の2回で振り返ります。
今週は”東洋のマチュピチュ”として一躍有名になった”別子・東平(とうなる)”地区を振り返ります。
今週はその第三弾で、”第三広場と東平変電所跡”です。
最初にご紹介するのが”小マンプ跡”です。東平の電車乗り場から第三通洞へ向けて2つのトンネルがあります。
東平集落にある短いこのトンネルを”小マンプ”と呼んでいました。マンプとは坑道を意味する”間符”から転じたものだそうです。
”第三広場”と呼ばれていたところには、画像のような狭い林道のような道を通ります。
人が通れるだけの幅しかありません。小さい大八車のような運搬機で、必要な資材や物資を運んでいたのでしょう。
この説明版が置かれているところが、かつて”第三広場”と呼ばれていて、大正5年から昭和5年までは、ここに”別子採鉱本部”が置かれ、別子銅山の前線基地としての中心地でした。
この広場を中心に、その周囲に各機能を配置し、建物や諸施設がおかれていたのです。
この煉瓦建ての建物は、”東平変電所遺構”です。
明治36年頃にできた開閉所を、大正6年頃に変電所機能を備えた煉瓦建ての建物として建築しなおされたものです。
もう、全国どこに行ってもこういう明治大正期に建てられた煉瓦造りの建物は見かけなくなりました。
この風格といいますか、風情といいますか、何ともいえない空気が漂っています。
別に「古いからいい」というのではなく、丹念に丹念に人手をかけ、慈(いつく)しまれ、大切な施設として運営されてきたことを、この遺構そのものが彷彿(ほうふつ)と物語っているように見えました。
”東平変電所遺構”の裏には、当時のものかどうかは別にして、ビールの空き瓶と、コカコーラの空き瓶が転がっていました。
コカコーラの文字のロゴや、アサヒビールのそれを見ると、かなり時代は下っていると思いますが、少なくとも昭和の始めまで現役で使われていた建物ですから、その頃のものには違いないと思います。
こういう生活の遺品も、当時の山の中の生活に僅かの潤いを与えたかとおもうと、愛おしく感じます。
こちらの施設は”火薬庫跡”です。
一時は世界で最大の産出量を誇った”別子銅山”です。
一日に使っていた”ダイナマイト等の火薬類”の量は膨大なものだったでしょうから、その管理には事の他気を使ったに違いありません。
万が一を考え、深いトンネル状の保管庫で管理され、坑口も、諸施設や人が働いていない方向に向けられていました。
今週の最後は、”第三通道跡”です。明治35年完成の、長さ1795mの主要運搬坑道の跡です。
後には、日浦通洞と連絡し、”端出場(はでば)水力発電所”への導水路も併設されていました。
明治38年には電車が導入され昭和13年からは一般利用にも提供されていたそうです。
来週がこのシリーズの最後で、上に出てきた”端出場(はでば)水力発電所遺構”などを振り返ります。
今週は”東洋のマチュピチュ”として一躍有名になった”別子・東平(とうなる)”地区を振り返ります。
今週はその第三弾で、”第三広場と東平変電所跡”です。
最初にご紹介するのが”小マンプ跡”です。東平の電車乗り場から第三通洞へ向けて2つのトンネルがあります。
東平集落にある短いこのトンネルを”小マンプ”と呼んでいました。マンプとは坑道を意味する”間符”から転じたものだそうです。
”第三広場”と呼ばれていたところには、画像のような狭い林道のような道を通ります。
人が通れるだけの幅しかありません。小さい大八車のような運搬機で、必要な資材や物資を運んでいたのでしょう。
この説明版が置かれているところが、かつて”第三広場”と呼ばれていて、大正5年から昭和5年までは、ここに”別子採鉱本部”が置かれ、別子銅山の前線基地としての中心地でした。
この広場を中心に、その周囲に各機能を配置し、建物や諸施設がおかれていたのです。
この煉瓦建ての建物は、”東平変電所遺構”です。
明治36年頃にできた開閉所を、大正6年頃に変電所機能を備えた煉瓦建ての建物として建築しなおされたものです。
もう、全国どこに行ってもこういう明治大正期に建てられた煉瓦造りの建物は見かけなくなりました。
この風格といいますか、風情といいますか、何ともいえない空気が漂っています。
別に「古いからいい」というのではなく、丹念に丹念に人手をかけ、慈(いつく)しまれ、大切な施設として運営されてきたことを、この遺構そのものが彷彿(ほうふつ)と物語っているように見えました。
”東平変電所遺構”の裏には、当時のものかどうかは別にして、ビールの空き瓶と、コカコーラの空き瓶が転がっていました。
コカコーラの文字のロゴや、アサヒビールのそれを見ると、かなり時代は下っていると思いますが、少なくとも昭和の始めまで現役で使われていた建物ですから、その頃のものには違いないと思います。
こういう生活の遺品も、当時の山の中の生活に僅かの潤いを与えたかとおもうと、愛おしく感じます。
こちらの施設は”火薬庫跡”です。
一時は世界で最大の産出量を誇った”別子銅山”です。
一日に使っていた”ダイナマイト等の火薬類”の量は膨大なものだったでしょうから、その管理には事の他気を使ったに違いありません。
万が一を考え、深いトンネル状の保管庫で管理され、坑口も、諸施設や人が働いていない方向に向けられていました。
今週の最後は、”第三通道跡”です。明治35年完成の、長さ1795mの主要運搬坑道の跡です。
後には、日浦通洞と連絡し、”端出場(はでば)水力発電所”への導水路も併設されていました。
明治38年には電車が導入され昭和13年からは一般利用にも提供されていたそうです。
来週がこのシリーズの最後で、上に出てきた”端出場(はでば)水力発電所遺構”などを振り返ります。
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