「松山城」③

さて、今日も怒涛の「松山城」です。


昨日書きましたように加藤嘉明は、秀吉と出会ったことで運命が変わった人です。


秀吉は、よく知られているように、織田信長が明智光秀に本能寺で討たれた後、光秀を倒し、更に信長の有力武将であった柴田勝家を”賎ケ嶽の戦い”で破り、信長に代わって”天下人”に上り詰めます。


加藤嘉明は秀吉の元で出世を重ね、”賎ケ嶽七本槍”の一人に数えられ、文禄四年(1595年)には伊予で六万二千九百万を賜り、正木(松前)城の青年城主となりました。


加藤嘉明と伊予との始めての出会いです。城郭1縮小当時の正木(松前)城は、古い城館を補修しただけの粗末なもので、高潮にあえば海に浸かってしまうありさま。


嘉明は、自分で壮大な築城をしてみたいという夢をふつふつと募らせていたことでしょう。


その後、嘉明は秀吉が起こした”征韓役”で戦功を上げ、十万石の城主となりました。城郭2縮小しかし、長浜城を夢みた嘉明は、十万石で満足できるはずはなく、秀吉が死んだ後は東軍(家康の陣営)に参加し、”関ヶ原の戦い”で活躍し、家康から二十万石を与えられました。


このことが、後に“松山城”に過酷な運命となって表れてくることを嘉明は当然知りません。


嘉明は、二十万石を得て、かねてよりの築城の夢を果たす決意を固めました。


当時、徳川幕府の統治体制はまだ不安定な時期で、様々な理屈をつけて、有力大名を取り潰し、幕藩体制を固めていた時代に嘉明は築城に取り掛かったのです。城郭3縮小当時の徳川の方針は、諸大名の築城に対して極めて消極的で、築城の候補地を挙げると、二番手候補が認められる傾向があることを見抜いていた嘉明は、幕府に第一希望の”勝山”を第二希望とし、”天山”を第一候補としました。


嘉明の読みは当たり、第二候補の”勝山”に築城が認められたというわけです。


築城奉行三人の中には、重信川の名前の由来となった”足立半右衛門重信”の名前もあります。城郭4縮小この城が、嘉明が自身の人生の後半、全精力を傾けて築いた”松山城”です。


勝山(標高132m)に築城されたので、松山城は別名”勝山城”とも呼ばれ、勝山の内堀の深い淵に金色の亀が棲んでいたといういわれから”金亀城”とも呼ばれます。







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じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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