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「松山城」余話(完結編)

今年は、愛媛にある”三城”をアップしました。

「今治城」と「大洲城」、それと「松山城」です。特に「松山城」はシリーズで採り上げました。

この”三城”は、ある人物を”キーマン”とする一種の因縁があります。

その人物は”藤堂高虎”です。今治城縮小
この画像は”今治城”です。

もちろん日本名城の一つで、”藤堂高虎”によって築城されています。

藤堂高虎は、関ヶ原の合戦の軍功により、徳川家康から伊予今治20万石の城主に取り立てられ、加増されて”今治城”を築城しました。

高虎は、それより以前、豊臣秀吉の時代、秀吉に取り立てられて伊予宇和島7万石の大名となり、”板島城”(今の”宇和島城”を築城しています)

”藤堂高虎”が伊予今治城主であったころに、彼の終生のライバルで犬猿の仲であったと言われている”加藤嘉明”が、お隣の松山で”松山城城主”となっています。

このことが、後に加藤嘉明の運命を大きく変える遠因ともなります。

この当時の二人は、そういう運命をもちろん知りません。お互い、自分の城の築城に情熱を注いでいた時代です。大洲城縮小
この画像は”大洲城”ですね。

”大洲城”も、もちろん日本名城の一つです。

さて大洲藩は、江戸時代に米子藩から”加藤貞泰”が入り、明治まで12代に渡って続いた藩です。

ところが、今の”大洲城”を実質的に築城したのは、やはり”藤堂高虎”でした。

もともとあった大洲城を大幅に改築し今の威容を形作ったのです。

”藤堂高虎”は当時、”縄張り”(設計家兼建築家という意味)の名手と謳(うた)われ、後に江戸城の改築まで成し遂げます。松山城縮小
この画像はもちろん”松山城”ですね。県庁の上に君臨しています。

”松山城”はシリーズで書きましたとおり、”加藤嘉明”が生涯を通じて自分の夢である”長浜城”(長浜城は壊されますが、後に”彦根城”として再築されました)を”松山城”に再現しました。

しかし、加藤嘉明は”藤堂高虎”の最大のライバルであった為に、松山城を完成させた後に会津若松転封されます。

当初、幕府は藤堂高虎に会津若松への転封を命じます。

ところが、会津若松などという東北の田舎に移封されることを嫌った藤堂高虎が策を弄し、幕府に加藤嘉明が適任だと推薦し、幕府もそれを取り入れたのです。

加藤家は、2代で費(つい)えました。(つぶれました)

”藤堂高虎”は、今治城と宇和島城を築城し、大洲城を大幅改築し今の姿にした他、松山城主である加藤家の運命まで大きく変えました。

その意味で、”藤堂高虎”は愛媛にとっては随分と縁の深い人物なのです。


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じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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