「大洲城」②

今日は”大洲城”を間近に見ます。


大洲藩の加藤氏はもと織田家の家臣で、後に秀吉に仕えた加藤光泰(みつやす)が祖です。


大洲に封じられたのはその子の貞泰(さだやす)で、元和3年(1617年)はじめて山国の大洲にやってきました。
大洲城6縮小
加藤家は大洲に落ち着くまでに、近江、播磨、甲府、美濃、米子そして大洲という風に6度も封地を変わっています。


大洲に封じられるまでは穀倉地帯を主な領地としていて、大洲という山間部の田舎は初めてだったので、藩の財政運営に苦労したとされます。
大洲城3縮小
松山市のお隣の砥部町はもともと大洲藩の領地。


ここで砥部焼きを始めさせたのが大洲藩の加藤泰候で、焼き物の先進地である九州の肥前や筑前に人をやって技術を学ばせました。


砥部町は平安時代から”砥石”の産地として有名で、その砥石を材料にして更に付加価値の高い焼き物を作らせ財政を安定化させました。
大洲城天守閣1縮小
そのお陰もあって、加藤家は明治期まで続きました。


藩風も穏やかだったのでしょう。今でも、そのような風土を感じさせる町ですね。


ところで、大洲城は”四重四階”(しじゅうしかい)といわれ、珍しい作りなのです。


普通、お城は奇数を好み、天守閣は三重か五重に決まったものでした。


一番初めにここに城を築いたのは近江から入封した”脇坂安治”ですが、安治は”誰に””何を”気使って四重にしたのでしょうか。


江戸時代は、戦国時代と比較するとはるかに安定した時代ではありました。


しかし、一方で”徳川家”の永遠を願う幕藩体制は、全国の大名に例外なく精神的・財政的圧迫を与え続けることになります。


戦国時代の雄の仙台伊達藩や、100万石という大藩であった加賀の前田藩でも例外ではありませんでした。


大洲城シリーズ”の後は、”宇和島城シリーズ”を採り上げますが、その中で江戸幕府から次々と要求される普請事業で藩の財政が圧迫されたことの悲劇に触れる予定です。






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大洲城

遅ればせながら・・あけましておめでとうございます。

大洲城、昨年3月に訪れました。駐車場横の早咲きの桜が
満開でした。

平成16年に再建された天守は当時の雛形や明治時代の写真
をもとに見事に再現されていますね。

No title

↑↑・・名前を記入し忘れました♪

じゅんさんにとって、さらに飛躍の年となるよう祈っています。
立場が変わっても愚息のことを厳しくご指導願います。

今年も宜しくお願いいたします。
プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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