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「西予市 龍沢寺」 ②

昨日に続き、西予市城川町にある”禹門山 龍沢寺(りゅうたくじ)”の、建物以外の風景をご紹介します。


鎌倉時代に建立されて、何度かの大改修を経て今日まで連綿と続いている建物群。


しかも、愛媛県でも”奥伊予”と称される高知県との県境の山中に、今でも信仰を引き継ぎ生きながらえさせている力は一体どこにあるのでしょう。

鬼瓦分1   これは、今は外され保管されている”鬼瓦”です。


この”鬼瓦”の”家紋”を見ますと”丸に十”の家紋ですね。


丸に十”の家紋は、九州は”島津家”(今の鹿児島)の家紋です。


なぜ、愛媛の山奥の城川に”島津家”の家紋が??

鬼瓦木型2   こちらは、上の”鬼瓦の木型”です。


この大きな”木型”で鬼瓦の型をとり、焼き上げたのでしょう。


さて、先ほどの疑問、城川の”龍沢寺”になぜ”島津家”の家紋が?


寺の由来によりますと、鎌倉末期(1323年)に、この地方の豪族、中尾坂城主の平采正(たいら うねめのかみ)が開山したとあります。


しかし、その約100年後、鹿児島藩主島津元久の長男である”仲翁守邦禅師(ちゅうおうしゅほうぜんじ)”が来て、当時は”龍天寺”と号していた寺を中興し、現在の”龍沢寺”と改号した、とあります。


当時は戦国時代で、九州の島津家は、四国侵攻を企て、何度となく伊予の国に攻め入っています。


鹿児島飯主島津元久は、長男をこの四国の山奥に派遣したのです。


単に仏門の徒として派遣したとは思えません。四国攻略の要と考えたとしても不思議ではありません。


当時の四国の勢力地図は、伊予に瀬戸内海の水運の覇権を握っていた”忽那水軍”がおり(忽那水軍は後に村上水軍に取って代わられる)、高知には四国の覇権を握らんと高知内で勢力を伸ばしてきた”長宗我部勢”が割拠していました。


奥伊予城川”は、伊予と高知を両睨みする戦略的拠点と、鹿児島の島津勢は考えたのでしょうか?


四国の雄にならんとする”長宗我部”勢をたたいて、伊予の”忽那水軍”を利用して京に攻めあがらんとする、”島津家”の壮大な戦略の拠点の役割を担わせるための、長男の”龍沢寺”への派遣ではなかったのか?


そういう歴史的な背景が、この家紋に現われ象徴されているのではないか?(これはワタシの想像ですが)

水鉢3   ”中雀門”と”本堂”の間の中庭には、大きな青銅製の”水鉢”が置かれています。


仏教伽藍の基礎的な知識がないワタシには、この”水鉢”の意味は分かりませんが、実用性を考えると余りにも大きすぎる”水鉢”は何を意味しているのでしょうか?

竜5   この”水鉢”に向かい合う位置に、こちらも青銅製の””が置かれています。


”龍”の口元には数々の”おみくじ”が貼り付けられていて、精悍な”龍口”はうかがい知ることが出来ません。


この””の足元には池が配されており、私の想像では””が池の水をタップリ吸い込んで、それを”水鉢”めがけて噴き上げる役目を負わせたのではないか?(かな・・・???)


ちょうど龍の口”は、”水針の口”を向いているのです。


だとすると、実用的には大きすぎる”水鉢”の意味がおぼろげながら理解できるのでは、と。

彫り物4   ”水鉢”の腰のところは八面体になっていて、それぞれの面に画像のような彫り物が施されています。

彫り物は、想像上の””のように見えまが、仏教の伝来経路を考えると”唐獅子”と言うのでしょうか。


つまり”水鉢”を守る”八虎”ということでしょうか?(これもワタシの想像に過ぎません)

木鼻7   この画像と下の画像は”木鼻”と呼ばれる構造物です。


木鼻”とは、柱を貫通させることで固定させている横柱の端部分をいい、象・貘・唐獅子など様々な動植物や霊獣の姿をした木鼻が見られます。



画像の”木鼻”は、”唐獅子”の姿をしています。

木鼻9(象   一方、この画像の”木鼻”は””の形をしています。


これらの”木鼻”を含めて、重い屋根を支える為に様々な”組物”と呼ばれる構造物も随所に見られます。


唐獅子”の上に見える構造物は、前後または左右に腕のように渡した横木で上からの荷重を支える肘木(栱)と、桁や肘木を受ける方形の斗(ます)・<枡形(ますがた)とも>とで構成されるもので、”斗組(ますぐみ・とぐみ)”などと呼ばれるものです。


これだけの仏教伽藍建築の技術は、伊予の地方の技術者だけで手に負えるものではありません。


多くの技術者を京から呼び寄せるだけの財力と、その必要性を”島津家”は持っていた証でもあります。

石畳10    ”山門”に至る石畳に立ち尽くして考えました。


先ず、”仏教”はインドで起こり、中国の影響を受けながら朝鮮半島を経由して日本に伝えられました。(大乗仏教と呼ばれます)


伝来した時期については諸説ありますが、欽明天皇期の538年説が有力なようです。


何れにせよ、多くの国に伝搬され、今日まで大きな影響力を持つ宗教となりえたということは、正に”仏教”は偉大な”文明”だということです。


普遍性に富んだ文明に他ならないということです。


公式に伝来して1世紀を経るころには、もう四国の山奥、”奥伊予”の城川のこの地に、壮大な仏教建築物を作ることが出来るまでに、仏教とそれに付随する技術を日本のものとして完全に取り入れていたということです。


子供の頃に、両親に手を引かれ、お釈迦様の誕生日には”甘茶”を頂きに、この石段を登ったことが走馬灯のように蘇りました。


歴史は、文明は連綿と続いていて、ワタシたちは、その流れの一辺に身をおいているということを実感した日になったことは事実です。


<お断り>今日の記述は、学問的研究に基づくものではなく、単なるワタシの空想に過ぎません。記述内容に学問的間違いがあれば、それは私の想像力の欠如に過ぎないことをお断りしておきます。








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趣きのある素敵な場所♪

回廊も、石畳も、苔に覆われた屋根も、鬼瓦も、木鼻も
何かもかも素敵です♪ わー、行ってみたいな~ぁ♪♪♪(*´∀`人)

龍は水をつかさどる神ですし、水鉢も水を崇めるために置かれたモノで
特に実用性は持たせてなさそうな気がしますが…
どうなんでしょねぇ???

確かに

ジンゴズンゴ様
「龍沢寺」は、奥伊予の隠れた名所ですよ。ぜひ一度訪れてみて下さい。歴史の重みと、連綿とつらなく時間の意味を感じることができると思います。
ワタシの興味は、当時の建築技術の粋を集めたものが、なぜ、伊予の山奥に作られたのか?
どういう必然性があったのか?ということと、その時代がヨーロッパで言えばルネッサンス花開く時代に先行しているという、日本文化の進化の早さです。
確かに龍と水鉢には、そう大きな意味合いはないのかも知れませんね。龍沢寺にある龍ですから、どこかに大きな意味があるのでは?と考えましたが。いずれにせよ、実用性は確かになさそうですね。

No title

鬼瓦の木型ですが粘土の原型ではなく、銅板瓦の下地のような気がします。つまりこの木型の上に銅板を貼ってしまうのです。

そうなんですか

匿名様
ワタシの古い記事まで目を通していただきありがとうございました。

郷里の「龍沢寺」は、大好きなお寺さんなので今まで何度も記事として取り上げてきました。

鬼瓦の木型は「銅板瓦」の下地かもしれないのですか。それは全く考えたこともありませんでした。それが事実としますと、創建当時はきらびやかな銅版の鬼瓦が南予の空で輝いていたことになりますね。

それは素敵な光景だったのでしょうし、他を圧倒する存在感だったのでしょうね。
過去に遡って様々に考えることの楽しさを教えていただきました。ありがとうございました。
プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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